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本間黙斎と「犂雨邨舎」

「佐渡の藤樹先生」といわれるほど徳行のあった本間黙斎(もくさい)は、1826年(文政9年)新穂小学校校門前に立つ石碑の付近にあった新延寺の境内に私塾「犂雨邨舎(りうそんしゃ)」を建て、新穂の人たちの教育に尽くした江戸時代中期から後期の儒学者・教育者です。

 

本間黙斎は、1754年(宝暦4年)相川二町目川島家に生まれ、遠縁である新穂の酒造業本間孫七家に婿に入りました。名前は本間成美、字(あざな)は子英(或いは士瑛)。黙斎と号し通称は孫七です。

 

幼い時から学問が好きで、20歳の時に京都に出て朱子学者那波魯堂(なわろどう)に漢学を学び、50歳(文化元年)の時に家督を子どもに譲り新穂の人たちの教育に尽くしました。71歳(文政8年)の時、佐渡奉行所が子弟教育のために設立した学問所「修教館」で教鞭をとっていましたが、翌年72歳(文政9年)に高齢のため暇を願って新穂に落ちつきました。近在の門人たちの寄付により山王社の別当新延寺境内の一隅に学問所「犂雨邨舎」を建て、近郷近在の子弟だけでなく全島の人々に忠信を主とした多岐にわたる学問を教授し、1825年(文政12年)6月29日に75歳で亡くなりました。

 

その門下からは、太田熊山など多数の優れた学者が出ました。犂雨というのは「晴耕雨読」の意味で、

 

 邨舎(村舎)は私塾のことです。石碑は新穂小学校の校門近く、墓碑は管明寺境内の墓地にあります。

墓 碑 石 碑  

令和7年 月  新穂地域づくり協議会